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きりたんぽ発祥の地は鹿角? 秋田名物のルーツをめぐる7つの謎

写真:串に巻いて焼くたんぽ。古い文献にも登場する、きりたんぽ鍋になる前の基本的な形。Douglas P Perkins / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
きりたんぽの発祥は鹿角だと思って、調べはじめました。市の案内も、発祥まつりも、そう書いてあります。農林水産省の「うちの郷土料理」を開くと、しかし発祥は「大館・鹿角地方」とあります。隣の大館市は、明治中期に料亭と旅館がおもてなしの鍋として確立した、だから「本場」だ、と名乗っています。発祥と本場は、同じ問いではなかった。さらに、いちばん有名なマタギの物語を文献で追うと、2023年の研究は、その発祥説そのものに文献上の異論をつけていました。
観光案内でも、発祥争いでもありません。秋田の名物について、確認できたこととまだ分からないことを分けて読みます。- 確認された事実
- 有力説・研究
- 伝承・俗説
- 未解明
確認された事実
鹿角市は「きりたんぽ発祥の地」を標榜しています。根拠として示されるのは、昭和9年(1934)10月25日、日本放送協会の秋田放送局から、料亭「濱の家」の宮腰了三郎が元祖発祥の地を陸中国鹿角郡花輪町と紹介したこと、その内容を昭和10年1月1日付『鹿角時報』が報じたことです。当時の局名は新聞も「秋田放送局」と書いています。現在の民放・秋田放送(ABS)ではありません。呼出符号も、1946年に始まるラジオ第2のJOUBではなく、開局時のJOUKです。 大館市と本場大館きりたんぽ協会は「本場」を標榜し、山籠りの農家の伝承を踏まえつつ、明治中期に市内の料亭・旅館がおもてなし料理として確立した、と説明しています。農林水産省は伝承地域を大館市・鹿角市とし、「大館・鹿角地方が発祥の地」と記しています。秋田県公式資料『秋田県の日本一と全国ベスト3〈番外編〉』では、現行版できりたんぽ鍋を秋田県北部の郷土料理として紹介しています。過去版には「鹿角市が発祥、大館市が本場といわれている」とする記載もありました。2013年の知事会見でも、発祥と本場を分ける趣旨の発言が確認できます。いずれも、秋田県が鹿角を唯一の発祥地として認定した、という意味ではありません。1. 発祥の地は、本当に鹿角なのか
確認された事実
並んでいる説明は、レイヤーが違います。鹿角市は発祥の地、大館市は本場、農林水産省は大館・鹿角地方。県公式資料の現行版は秋田県北部の郷土料理、過去版は発祥と本場を分けて紹介し、2013年の知事会見も発祥と本場を分けています。県のサイトでも、教育旅行では鹿角発祥、食文化の解説では米代川流域のマタギや樵、と書き方が分かれます。一つの公式認定として読むことはできません。有力説・研究
荒谷由季子氏は、『鹿角時報』「名物と本塲」が、のちに鹿角が発祥を謳う根拠になった記事だと指摘しています。記事は、秋田・能代・大館にはもともと切たんぽはなく、秋田ではダマコ餅だった、今は各地が本場を名乗りはじめた、しかし発祥の地は鹿角、なかでも花輪だ、と書いています。大正10〜11年には花輪の料亭「一二三軒」が「新米切りたんぽ」「元祖切りたんぽ」と広告しています。一方、幕末から明治の日記では、大館町とその周辺でもたんぽや切たんぽを囲む記録が残っています。発祥を標榜する根拠と、食っていた場所の記録は、同じではありません。未解明
最初に誰が、どこで、いまのきりたんぽに相当する料理を作ったのかは、特定できていません。「発祥の地」が指すのが発明地点なのか、ラジオで元祖と紹介された地点なのかでも、答えは分かれます。2. 原型はマタギか、山の仕事か
伝承・俗説
よく知られる伝承では、八幡平のマタギが米を串に巻いて携帯し、熊を獲れば熊鍋に切って入れた、とされます。阿仁のマタギが山の食糧にし、獲物のだしで食べた、という話も昭和26年(1951)の『北鹿新聞』にすでに出ています。花輪から尾去沢、柴平へご馳走として広まった、とする鹿角側の語りもあります。有力説・研究
荒谷氏は、江戸後期から現代までの日記・新聞・民俗誌を年代順に洗い、マタギ発祥説は根拠が薄い、否定せざるを得ない、と書いています。論拠は三つです。古い阿仁の調査や『秋田マタギ聞書』にはたんぽが出てこない(出てくるのは新しい一般書)。マタギの携帯食として記録されるのはカネモチ、神餅、干し餅、煎り豆などで、たんぽではない。マタギ自身の実録が見当たらない。鹿角の郷土史家・関久も、マタギは焼き飯や乾飯で動き、山子は一定の場所に住んで働く、という生活の差から、山子起源説に与したい、と講演で述べています。昭和6年(1931)の佐々木彦一郎『山島社会史-鹿角民俗誌』も、マタギとヤマゴを分け、山の食べ物としてヤマゴタンポを記し、輪切りと鶏肉のカヤギを「キリタンポ」と呼んでいます。 いちばん古い「たんぽ」に近い記録も、マタギではありません。菅江真澄は寛政6年(1794)、恐山近くの杣小屋で「たんぱやき」を食べ、寛政8年(1796)には岩木山中で、長い木串に巻いた「丹波焼/たんぱやき」を記しています。作っていたのは伐採の山子で、場所はいまの青森県です。炊きたてのうるち米を臼でつき、串に巻き、味噌を付けて焼いています。北東北の山仕事の食事として、すでに名前も形もあった、というのが文献の出発点です。未解明
マタギが山でたんぽを食べた可能性まで、文献は消していません。消しているのは、「マタギが最初に作った」と文献で証明できる、という言い方です。3. なぜ、棒に巻くのか
伝承・俗説
残った冷たい飯を潰して串に巻き、保存し、持ち歩き、味噌を付けて焼いた——冷飯・残飯説です。山小屋の残り飯を鳥鍋に入れた、という説明は、農林水産省のページにも「伝えられる」と書かれています。大館市の協会も、山籠りの農家が残ったご飯を串に巻いた、と伝えています。有力説・研究
荒谷氏は、この説も否定せざるを得ない、としています。いちばん早い「冷飯」の記述は、明治25年(1892)、早口(現大館市)の杣所を見た高坂義雄の日誌です。「食い残した冷飯を入れて置いてタンポを作るものならん」。荒谷氏は、「ナラン」は断定ではなく「作るものでしょう」という推測だと読みます。次に冷飯処理として語られるのは昭和26年の新聞です。昭和10年、秩父宮が大館できりたんぽを出したときの説明をめぐる郷土史家の論争が背景にある、とも書いていますが、当時の新聞は残っておらず、荒谷氏自身も保留にしています。 山での実録として挙げるのは、真澄と、田中喜多見『山村民俗誌』(1933)のボタ餅です。どちらも米を研いで炊くところから始まっています。日景健『大館風土記』は、冷飯を鍋に入れれば雑炊になる、日常の残り飯をたんぽに作り替える手数は考えにくい、と書いています。荒谷氏は、冷たい飯を棒に巻き付けること自体がほぼ不可能ではないか、とも述べています。文献がよく見せるのは、冷飯の保存処理より、炊きたての飯を串に付けて焼く山小屋の食べ方です。未解明
残り飯が材料になった場面が一度もなかったとまでは言えません。昭和44年『鹿角のあゆみ』の山小屋の残り飯も、関久の「残飯をたんぽ串に握り付け」も、聞き書きであって、冷めきった飯だとは書いていません。4. 鍋は、熊鍋から始まったのか
伝承・俗説
八幡平では、熊を獲れば熊鍋にたんぽを切って入れた、と語られます。雉や山鳥のかやきだった、という記憶も『鹿角時報』に残っています。確認された事実
文献に残る鍋の記録は、熊ではありません。元治元年(1864)、現在の大館市二井田の一関平左衛門日記に、タンボと鶏一羽、牛蒡を添えて送った記述と、たんほ会の記述があります。翌慶応元年(1865)、庄司唫風『善久録』に「キリタンポ振舞」「切たんほ会」が出ます。原文は荒谷氏も未見ですが、季節のたんぽ会がすでに習慣だった、と読んでいます。場所は米内沢勤め、自宅は阿仁前田です。明治に入ると、大館町の小野儀助の日記に切たんぼ・鶏鍋、鴨鍋、新米の切たんぼ振舞が繰り返し出ます。鹿角では明治29年(1896)、のちに花輪町長となる小田島由義が「短蒲を饗す」と書いています。有力説・研究
荒谷氏によれば、もともと料理の名は「たんぽ」と「きりたんぽ」で、「鍋」は後から付いた字です。「きりたんぽ鍋」という書き方は、昭和10年・12年の広告に一度出たあと昭和40年代までほとんど見えず、平成に入って増えます。具材も、いまの比内地鶏・舞茸・せりに固定されるのは新しい。昭和の市勢要覧には松茸、焼豆腐、ナメコも出てきます。未解明
熊鍋が山小屋や家庭であった可能性は、伝承として残っています。いまのきりたんぽ鍋の直接の祖型として文献が示すのは、鶏と根菜の鍋と、秋のたんぽ会です。5. 「たんぽ」は、何に似ていたのか
確認された事実
名前の由来として文献に残るのは、少なくとも二つです。明治40年(1907)、俳人の河東碧梧桐は扇田で「比内の鶏と北秋田の特色タンポ」を馳走され、土地の人から、名はたんぽ槍だと教わりました。荒谷氏は、語源がはっきり書かれた初出だとしています。碧梧桐自身は湯婆(ゆたんぽ)から転じたのではないか、と推測しています。鹿角では、小田島が「短蒲」と書き、方言集や民俗誌は蒲の穂の形を繰り返し使います。農林水産省も「短穂」から「たんぽ」になった、と紹介しています。有力説・研究
荒谷氏は、たんぽ槍説は明治末には広く知られていた、一方で鹿角では今もガマの穂とする傾向が強い、と書いています。湯婆説は碧梧桐の推測であって、土地の人の説明ではありません。形が槍の穂にも蒲の穂にも見える、という観察自体は、どちらも記録と矛盾しません。未解明
最初に誰が「たんぽ」と呼んだのかは分かりません。真澄の時代にはすでに「たんぱやき」という名があります。殿様に聞かれてとっさに付けた、という物語より、名前の方が先にあります。6. 南部の殿様は、名付け親なのか
伝承・俗説
湯瀬温泉に湯治中の南部の殿様が、マタギの食事を見て「何の飯だ」と尋ね、「タンポを切った飯だ」と聞くと「キリタンポではないか」と名付けた——という話です。昭和54年、鹿角タイムスの阿部真平が、八幡平・老沢の山口爺の話として書いています。荒谷氏は、八幡平発祥やマタギの話が広まった背景に、この記事があるかもしれない、と見ています。昭和26年の『北鹿新聞』にも、阿仁マタギと南部の殿様の命名が出ています。有力説・研究
荒谷氏の収集では、殿様伝説がいちばん古く確認できるのは昭和26年の新聞です。明治40年の碧梧桐には槍の話はあっても、殿様は出てきません。方言集や市史にも載っていません。関久は南部藩主・御境奉行・巡見使の記録を当たり、痕跡は見つからなかった、と述べています。藩主本人ではなく、御境奉行が「殿様」と呼ばれたのではないか、というのが関久の推測です。平成元年の『八幡平の民俗』には殿様伝説はなく、聞き取りでは、切りたんぽは昭和30年以降、家によっては40年すぎてからで、それ以前のタンポは味噌タンポだった、という家もあります。未解明
誰かが「きりたんぽ」と呼ぶきっかけになった場面があったかどうかは、分かりません。名付け親を史実として書く材料は、いまのところありません。7. なぜ、「本場」は大館と呼ばれるのか
確認された事実
大館市は、家庭の味として受け継がれたきりたんぽを、明治中期に料亭・旅館がおもてなし料理として提供し、味と具材が確立した、だから本場と呼ばれる、と説明しています。きりたんぽまつりは昭和48年(1973)に始まります。荒谷氏によれば、「本場大館きりたんぽ」というフレーズが市勢要覧に出るのは昭和63年(1988)です。食べる文化は古く、スローガンは新しい、という整理です。平成25年10月15日の知事会見では、佐藤錦のたとえとしてきりたんぽが引かれます。当時の知事は、「本場というのは、最初に作ったところじゃない」「市場を押さえたところが本場」と述べたうえで、「鹿角が発祥の地になっているんですよ。ところが大館が本場なんですね」と続けています。有力説・研究
知事の発言は、六次産業化の議論のなかで、発祥と本場は違う、という認識を示したものです。大館が本場と呼ばれる理由も、発明の先後ではなく、料亭での確立、比内地鶏との結びつき、まつりと観光の継続、に置かれています。『鹿角時報』はすでに昭和10年、大館が本場や元祖を名乗りはじめた、と書いています。本場という言葉自体が、かなり早くから争点だったことになります。未解明
料亭のおもてなしが、家庭の鍋をどれだけ変えたのかは、味の再現では測れません。明治の日記が示すのは、大館町でもすでに切たんぼを日常的に食べていた、という事実です。いま分かっていること
マタギ発祥説に文献上の問題があるからといって、鹿角のきりたんぽ文化が消えるわけではありません。明治29年、鹿角の小田島由義は短蒲を饗しています。昭和6年、佐々木彦一郎は鹿角の民俗としてヤマゴタンポとキリタンポを書き分けています。昭和9年のラジオは花輪を元祖発祥と紹介し、翌年の『鹿角時報』がそれを活字にしています。大正の花輪には「元祖切りたんぽ」の広告があり、八幡平にはマタギと熊鍋の独自の語りが残っています。いまも家庭と店でたんぽを焼き、11月11日をきりたんぽの日とし、発祥まつりを開いています。文化庁の「100年フード」にきりたんぽが認定されたとき、荒谷氏は、たんぽは220年以上、きりたんぽは150年以上、途切れていない、と整理しています。 秋田県の郷土食の解説は、鹿角と大館を別々の勝者としてではなく、米代川流域の同じ伝承圏として書いています。新米と山の恵み、炭火で焼いたたんぽ。農林水産省が「大館・鹿角地方」と書くのも、その重なりです。大館にも、日記と料亭とまつりの層があります。発明地点をピンで刺せないことと、山と米の暮らしのなかで育った食文化がないことは、同じではありません。未解明
最初に誰が、どこで、いまのきりたんぽに相当する料理を作ったのかは、分かっていません。分かっているのは、説明のレイヤーが複数あることです。鹿角市は発祥の地を標榜する。大館市は本場を標榜する。農林水産省は大館・鹿角地方が発祥の地とする。県公式資料の現行版は秋田県北部の郷土料理として紹介し、過去版と2013年の知事会見は発祥と本場を分けて書いている。荒谷論文は、いまよく語られるマタギ発祥説と冷飯・残飯説に、文献上の問題があるとする。伝承としては、八幡平マタギの携帯食、熊鍋、阿仁への伝播、南部の殿様の命名が残っています。物語を史実に置き換える必要はありません。山と米の暮らしのなかで、串に巻いた飯が鍋になった。その過程が、北秋田のいくつかの土地で、記録と語りの両方を残しました。参考資料
- 発祥の地鹿角 きりたんぽ協議会(tanpo.or.jp)昭和9年ラジオ・昭和10年『鹿角時報』の説明
- 旅するかづの/鹿角公式観光サイト「11/11はきりたんぽの日」
- 大館市「秋田名物本場大館きりたんぽ協会」(明治中期の料亭・旅館によるおもてなし料理としての説明)
- 農林水産省「うちの郷土料理」きりたんぽ鍋(大館・鹿角地方が発祥の地、伝承地域は大館市・鹿角市)
- 農林水産省「きりたんぽ…秋田県」(こどもページ)
- 秋田県「平成25年10月15日知事記者会見」(https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/7611)六次産業化の質疑における発言
- 秋田県「秋田県の日本一と全国ベスト3〈番外編〉」(https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/5099)。現行の令和7年12月26日改訂PDFは「秋田県北部の郷土料理」「マタギの料理が起源だったとの説」。過去版には「鹿角市が発祥、大館市が本場といわれている」とする記載があった
- 秋田県「美食・秋田の食文化」(https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/550)米代川流域、米と山の仕事を背景とした整理
- 秋田県「鹿角地域教育旅行特集」(https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/37807)発祥の地・鹿角市としての紹介
- 荒谷由季子『たんぽ きりたんぽ きりたんぽ鍋』『火内』第17号、大館郷土博物館、2023年、pp.5-63(J-STAGEで全文公開)
- 菅江真澄『おくのてぶり』(寛政6年/1794)「たんぱやき」、『ゆきのもろたき』(寛政8年/1796)「丹波焼/たんぱやき」
- 一関平左衛門日記(元治元年/1864)タンボ・鶏・牛蒡、たんほ会
- 庄司唫風『善久録』(慶応元年/1865)キリタンポ振舞、切たんほ会(荒谷論文は原文未見と注記)
- 小野儀助『郷蔵出勤録』および明治20年代日記(大館町の切たんぼ・鶏鍋)
- 小田島由義日記「伏雲叢書」(明治29年/1896)「短蒲を饗す」
- 高坂義雄「平滝沢字割沢杣所伐木事務所寄留日誌」(明治25年/1892)冷飯とタンポの推測
- 河東碧梧桐 明治40年(1907)扇田・能代の紀行(たんぽ槍、湯婆の推測)
- 佐々木彦一郎『山島社会史-鹿角民俗誌』刀江書院、1931年
- 田中喜多見『山村民俗誌―山の生活篇―』一誠社、1933年
- 内田武志『鹿角方言集』刀江書院、1936年
- 『鹿角時報』昭和10年1月1日「名物と本塲」(荒谷論文が全文を紹介。放送主体を「秋田放送局」と表記)
- 『北鹿新聞』昭和26年1月14日「切りたんぽの由来」、同年1月18日「北鹿抄 切りたんぽ談義」
- 関久「山子とタンポ」平成2年度鹿角市文化財保護協会総会記念講演資料
- 阿部真平 鹿角タイムス 昭和54年(八幡平マタギ・湯瀬・殿様命名。話者は老沢の山口爺)
- 鹿角市史民俗調査報告書『八幡平の民俗』平成元年(1989)
- 文化庁「100年フード」きりたんぽ(2022年、伝統部門・有識者特別賞)
数値・引用・解釈は上記の公式資料と荒谷論文に依ります。伝承は伝承として書き、行政の標榜・会見の発言・研究の結論を混ぜて一つの「正解」にはしていません。新しい一次資料が出れば、有力説は更新されます。
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