御茶ノ水駅のそばに残る一本の木――移転した太田姫稲荷神社の旧社地を歩く

地図から消えた日本 #02 太田姫稲荷神社 御茶ノ水。古地図と淡路坂と一本の木

地図から消えた日本 #02

御茶ノ水駅のそばに残る一本の木――移転した太田姫稲荷神社の旧社地を歩く

1記事=1か所。今回は、太田姫稲荷神社だけを歩く。

秋葉原では、神社は地名を残して消えた。
御茶ノ水では、社殿が移ったあとに、一本の木が残った。

古地図と神田川の鉄道、一本の大木を重ねたイメージ。地図から消えた日本 #02 太田姫稲荷神社
「地図から消えた日本」#02 太田姫稲荷神社。キービジュアルは編集合成であり、実在の古地図や御神木の現地写真そのものではありません。

JR御茶ノ水駅の聖橋口を出る。神田川と聖橋を左に見ながら、秋葉原方面へ下る急坂がある。千代田区は、この坂を淡路坂と呼ぶ。坂の入口、歩道橋の近くに、椋の大木がある。千代田区の文化財サイトは、その木に「元宮」と書かれた木札が下がっていると記す。

社殿はない。線路がある。残っているのは、木と短い文字である。この連載は心霊を追わない。公開された区の記録と、明治の測量原図と、国土地理院の空中写真をつき合わせ、一本の木が指している場所を歩く。

CHAPTER 01現在、この場所には何があるのか

御茶ノ水は、駅の名前の通り、崖と水の街である。神田川が本郷台地を削り、中央線がその崖下を走る。JR東日本が公表する2024年度の駅別乗車人員では、御茶ノ水は1日平均8万8,364人、同社管内で第45位である。降車は含まない。乗換と大学と病院の人流が、狭い改札に集中する。

聖橋口を出ると、石のアーチと川が見える。左側、秋葉原方面へ下る坂が淡路坂である。千代田区公式「千代田区内の坂」は、「聖橋の南詰から神田川に沿って東に下る坂」と説明する。江戸時代、坂上西側に鈴木淡路守の屋敷があったことから、この名が呼び慣わされたのであろう、と。

同じ項に、こう続く。「坂上東側には太田姫稲荷神社がありましたが、鉄道線路拡幅のため昭和6年に移転し、現在は神田駿河台一丁目にあります。」

いま坂を歩いても、社殿はない。あるのは駅と線路と、区が記す一本の木である。現在の地図の記号は、鉄道と道路で埋まっている。空白に見えるのは社地であって、坂そのものが消えたわけではない。

国土地理院の標準地図。御茶ノ水駅と淡路坂付近
現在の御茶ノ水駅・淡路坂付近。出典:地理院タイル(標準地図)/国土地理院。ピンは駅と坂の関係を示す。御神木の座標をこの図で特定しない。

CHAPTER 02古地図を開いてみる

この一帯を、明治の測量原図で見ることができる。参謀本部陸軍部測量局が明治16年(1883)に測量した『五千分一東京図測量原図』のうち、『東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍』である。国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースは、内容年代を明治16年、大きさ29×36cmと記す。国土地理院の古地図コレクションでも、同シリーズを閲覧できる。

図の範囲は、神田区駿河台から本郷区湯島へかけての市街である。神田川が台地を割り、南側の高台が駿河台、北側が湯島聖堂の一帯になる。千代田区文化財サイトは、旧社地について「神田川を挟んでちょうど湯島聖堂の塀の反対側」にあり、「神田駿河台の地を鎮護する高台にあった」と書く。明治の図が描くのは、総武線の高架ができる前の、その高台である。

本記事は、この原図の高精細画像そのものは埋め込まない。閲覧は地理院と日文研の公開条件に従う。編集図だけで明治の社地を説明することも、しない。原図は一次資料として開き、この記事では同じ範囲の国土地理院の空中写真現在の地理院地図を示す。

原図から半世紀以上あとの空中写真を開く。国土地理院が公開する1945〜1950年の写真では、神田川の南岸にすでに鉄道が走っている。社殿をこの写真から特定してはいけない。写っているのは、遷座のあとに残った線路である。1961〜1969年の写真では、聖橋と川と高架の骨格がさらに明瞭になる。現在の標準地図では、その線の上に御茶ノ水駅の文字が重なる。

明治の紙の地図、戦後の空中写真、いまの地理院地図。三つを重ねると、高台の縁が線路に削られていく過程が見える。神社の記号が消えるのは、その途中である。

国土地理院の空中写真。1945年から1950年の神田川と御茶ノ水
神田川と鉄道。空中写真(1945〜1950年)。出典:国土地理院。遷座後の線路であり、社殿の位置をこの写真から特定しない。
国土地理院の空中写真。1961年から1969年の聖橋と神田川
聖橋と神田川。空中写真(1961〜1969年)。出典:国土地理院。

THEN

空中写真 1961〜1969

1960年代の御茶ノ水・聖橋周辺の空中写真

NOW

地理院地図(現在)

現在の御茶ノ水駅周辺の地理院地図
THEN / NOW。1960年代の空中写真と、現在の地理院地図。出典:国土地理院。旧社殿の位置をこの対比図で断定しない。

CHAPTER 03神社はいつ、なぜ造られたのか

起点は、江戸城である。千代田区文化財サイトは、こう記す。1457年(長禄元年)、太田道灌は娘が重い疱瘡にかかったとき、京にあった一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)を江戸城内に勧請遷座した。その神社がのちに江戸城の鬼門から城の外へ出て、神田錦町、そして神田駿河台の地に移り、現在の社になった、と。

千代田区の観光公式サイト Visit Chiyoda も、古名を一口稲荷神社とし、慶長11年(1606)の江戸城改築にともない移転した、と伝える。社を鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった、とも。代々の将軍が崇敬し、修理造営は徳川家が行ってきた、と伝えられている、という書き方である。伝承は伝承として置く。

東京都神社庁のページは、由緒本文を載せず、祭神を宇迦之御魂大神、所在を神田駿河台1-2-3、例祭を5月15日前後の土曜・日曜と記す。Visit Chiyoda は祭神に宇迦之御魂命のほか菅原道真と徳川家康を挙げる。本記事は、神社庁の祭神表記を優先し、区の観光サイトの相殿は並記するにとどめる。

一口は、疱瘡を洗う、という読みを含む。坂の別名が一口坂であることも、区公式が記す。神社は、城の祈りから町の鎮守へ移った。駿河台の高台は、鬼門の方角であり、神田川を見下ろす場所でもあった。文化財サイトが「神田駿河台の地を鎮護する高台」と書くのは、その地形のことである。

江戸時代から大正期までの神社は、明治期の地図や写真でも確認できる、と文化財サイトは言う。本記事が明治の五千分一図を手がかりにするのは、その一文に対応するためである。写真そのものは、区が確認できると書いた事実として扱い、ここに無断では埋め込まない。

CHAPTER 04なぜ、この場所から消えたのか

移転しました、で終わらせてはいけない。なぜ、淡路坂の縁に鉄道が必要だったのか。

総武線は、長く両国が都心側の終点だった。千葉方面の列車を、中央線の御茶ノ水へ直通させれば、都心の乗換は一気に短くなる。神田川の谷は、その接続に都合がよい。崖下を東へ延ばせば、秋葉原を経て両国へ届く。高台の縁は、線路の用地になった。

ただし、公式の年次は一枚岩ではない。千代田区文化財サイトは、「大正期の総武線御茶ノ水・両国駅間の工事のために移転した」と書く。同じ区の「区内の坂」は、「鉄道線路拡幅のため昭和6年に移転し」と書く。大正か、昭和6年か。この記事では、どちらにも軍配を上げない。区の公式が二つの書き方を残している、という事実を残す。

鉄道の側の記録は、もう一層ある。江戸東京博物館が所蔵する『昭和7年 御茶ノ水両国間高架線建設概要 付録 総武線御茶ノ水両国間線路平面図・断面図』は、発行を鉄道省、年代を昭和7年6月とする。土木学会の論文は、この延長線工事を1931年(昭和6年)着工、1932年(昭和7年)の電車運転開始と整理する。神社の遷座年と、線路の開業年を同一視してはいけない。社が動いたことと、電車が走り始めたことは、近接した別の時間である。

なぜこの谷なのか。関東大震災のあと、東京は復興の道路と鉄道を同時に引こうとしていた。両国から御茶ノ水へ高架を伸ばすことは、乗換の改良であり、都心の東西を繋ぐことでもあった。崖の縁にあった鎮守の敷地は、その線形の内側に入った。神社は、廃絶されたのではない。線路に場所を譲って、坂の途中から少し西へ移った。

  1. 江戸城内に一口稲荷 太田道灌の勧請(千代田区文化財)
  2. 城外・駿河台へ 江戸城改築に伴う移転(Visit Chiyoda)
  3. 五千分一図に駿河台・湯島 参謀本部陸軍部測量局
  4. 淡路坂から遷座 文化財サイトと区公式坂で年次の書き方が異なる
  5. 神田駿河台1-2-3 旧地に椋の木と「元宮」。社殿は西へ移った

鉄道省の建設概要は昭和7年。遷座の公式記述は大正期と昭和6年の二層。本文で区別する。

太田姫稲荷神社の移転を長禄元年から現在まで並べた時系列図
太田姫稲荷神社 移転の時系列。編集図。西暦と出来事は本文の史料に対応する。

CHAPTER 05その後、神社はどこへ行ったのか

旧社地は、淡路坂の坂上東側。そこから社は、神田駿河台一丁目へ移る。現在地は、東京都神社庁によれば東京都千代田区神田駿河台1-2-3である。千代田区文化財サイトは、三井住友海上火災本社ビルの西側に社殿がある、と補う。

Visit Chiyoda のアクセスは、JR中央線・総武線「御茶ノ水駅」聖橋口から徒歩2分、東京メトロ丸の内線「御茶ノ水駅」1または2出口から徒歩3分、千代田線「新御茶ノ水駅」B3A出口から徒歩1分である。旧社地の坂から、現社地まで、歩いてたどれる距離だ。

消滅ではない。合祀でもない。遷座である。地図の記号は旧地から消えたが、社は同じ駿河台の地で宇迦之御魂を祀り続けている。例大祭は、文化財サイトによれば隔年の5月。神社庁は5月15日前後の土曜・日曜と記す。

国土地理院の標準地図。神田駿河台の太田姫稲荷神社現社地
現在の太田姫稲荷神社(神田駿河台1-2-3)。出典:地理院タイル(標準地図)/国土地理院。所在は東京都神社庁と千代田区文化財サイトに基づく。

CHAPTER 06旧社地に痕跡は残っているか

秋葉原では、目に見える社地の痕跡は確認できなかった。御茶ノ水では、区が痕跡を文章に残している。

千代田区文化財サイトは、淡路坂の入口に、いまも「元宮」と書かれた木札が、歩道橋近くの椋の大樹に下がっている、と記す。坂の名前も残る。一口坂、相生坂、大坂という別名を、区公式は列挙する。いま相生坂と呼ばれるのは、神田川の向かい側、文京区との境界の坂である。

石の社殿は、旧地にはない。鳥居も、坂の途中では確認できない、とこの記事では書く。確認できると区が保証しているのは、木と木札と坂の名である。それ以上の「発見」は作らない。

木は、社殿の代用品ではない。旧宮の位置を、路上から指さすための目印である。線路と駅と坂道のあいだに、なぜ一本だけ残ったのか。公式資料が示す答えは、神秘ではない。元宮の記憶が、木に託された、という事実である。

CHAPTER 07現在地を歩いてみる

アクセス

旧社地の痕跡:JR御茶ノ水駅・聖橋口を出て、秋葉原方面へ下る淡路坂の入口付近。歩道橋の近く。公共の歩道上である。線路内、駅構内の立ち入り禁止区域、私有地には入らない。木に登らない。

現社地:神田駿河台1-2-3。新御茶ノ水駅B3A出口から徒歩約1分、聖橋口から徒歩約2分(Visit Chiyoda)。境内は公開の参拝空間として歩く。

坂の入口で木を確認したら、同じ駿河台を西へ、現在の社へ歩ける。距離は短い。空気は、駅前の喧騒から、ビルの脇の鎮守へ変わる。文化財サイトが触れる「駿河台道灌道」や「駿河台匂」の桜は、旧社地の物語の延長にある地名と木である。ただし桜を旧社地の痕跡とは書かない。

旧社地側で必要な観察は、坂の形と、川の反対側の湯島聖堂と、一本の木で足りる。柵の向こうを探さない。

CHAPTER 08地図から消えても残ったもの

社殿は移った。鳥居の記号は、現在の地図の坂から消えた。残ったのは、坂の名と、椋の木と、「元宮」の三文字である。

秋葉原では、土地の呼び名が駅になった。御茶ノ水では、土地の祈りが木になった。どちらも消滅ではない。用途が変わったあとに、記憶の置き場所が残った。

地図から消えた日本は、空白の物語ではないことが多い。線路が通っても、坂は坂のまま残り、木は旧宮を名指しする。太田姫稲荷神社は、その典型である。

次回は、日比谷である。名前は日比谷のまま、社地だけが新橋へ移った神社を歩く。

#03 日比谷神社を読む →

出典

キービジュアルおよび時系列図は編集図であり、実在の古地図・御神木写真の代替ではありません。明治の測量原図は地理院・日文研の公開ページで閲覧してください。空中写真と現在地図は国土地理院の地理院タイルを加工して作成しています。

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