岐阜県 揖斐川町 — 水没・移転
水の下に、八つの集落があった。地図から村名が消えても、暮らしの記憶は続いている。
岐阜県揖斐川町の山あいに、徳山湖があります。
その水面の下には、かつて一つの村がありました。本郷、下開田、上開田、山手、櫨原、塚、戸入、門入。八つの集落に家があり、田畑があり、学校があり、人びとの一年がありました。
徳山ダムの建設に伴い、住民は村を離れました。1987年、徳山村は藤橋村へ編入され、自治体名としても地図から消えます。補償契約は466世帯と結ばれ、2006年の試験湛水を経て、谷は湖へ変わりました。
しかし、ふるさとは水没と同時に終わったのでしょうか。
「徳山村」は一つの点ではない
旧徳山村は、福井県境に近い揖斐川上流の広い山村でした。
水資源機構の資料が挙げる集落は、本郷、下開田、上開田、山手、櫨原、塚、戸入、門入の八つです。それぞれに生活の場があり、集落間を道がつないでいました。
だから、地図に一つだけピンを置いて「ここが徳山村だった」と示すのは正確ではありません。本記事では湖面と周辺地形を示し、確認できる旧集落名を複数表示します。現在の水面の下にある位置は、旧版地形図と事業資料を照合した「概略」として扱います。
ダム計画と、全世帯の移転
徳山ダムは、洪水調節、流水の正常な機能の維持、新規利水などを目的とした多目的ダムです。計画は長い時間をかけて進み、その中心にあったのが住民移転でした。
水資源機構の公表資料では、1989年3月までに466世帯との補償契約が完了したとされています。数字は事業の規模を伝えますが、「466世帯」は466通りの移転でもあります。家、墓、隣人との距離、雪国の暮らし方まで、移せるものと移せないものがありました。
1987年4月、徳山村は藤橋村へ編入され、自治体として廃止されました。その後、藤橋村は2005年に他町村と合併し、現在は揖斐川町の一部です。

村が湖になるまで
住民が移転したあとも、谷はすぐに湖になったわけではありません。
ダム本体工事が進み、2006年9月に試験湛水が始まりました。水位が上がるにつれ、旧道や橋、かつての生活圏が水面の下へ入っていきます。徳山ダムは2008年に完成しました。
ここで「村が消えた日」を一日に決めることはできません。全世帯の移転、自治体の廃止、試験湛水、ダム完成は、それぞれ別の日です。徳山村の消失は、長い時間の中で段階的に進んだ出来事でした。
5,890点の民具が伝える生活
旧徳山村の暮らしを伝えるものは、湖の外へ運び出されています。
揖斐川町の徳山民俗資料収蔵庫には、旧村で使われた民具5,890点が収蔵されています。農具、山仕事の道具、衣食住に関わる品々は、ダム建設だけを語るのではなく、それ以前にどのような生活があったのかを伝えます。
写真家・増山たづ子は、ふるさとが沈む前の人びとと風景を撮り続けました。その写真は、事業記録とは異なる角度から、村で暮らした人の表情や時間を残しています。写真の掲載には所蔵者・権利者への確認が必要ですが、徳山村を語るうえで欠かせない記憶の層です。
湖畔に残された「帰る場所」
現在、徳山湖の近くには徳山会館があります。
揖斐川町の条例は、この施設の目的を、旧徳山村民が故郷をしのぶ場とすること、そして上下流地域の交流を進めることに置いています。失われた村を過去に閉じ込めるのではなく、旧住民、家族、訪問者、下流で水を利用する地域との関係をつなぐ場所です。
湖はダムの機能を担う現在の風景です。同時に、その下にあった暮らしを想起させる入口でもあります。
水没した村を、観光地だけにしない
徳山湖を訪れると、静かな水面と巨大な堤体が目に入ります。けれど、景観の大きさだけを強調すると、そこに暮らした人びとの選択や喪失が見えにくくなります。
記事では、旧住民の言葉を新たに掲載する場合、取材日時と同意範囲を記録します。「住民は皆反対した」「皆が納得して移転した」といった一括りの表現は使いません。公的資料で事業経過を確認しながら、個人の記憶は一人の経験として扱います。
水面の下と、いまの地域を結ぶ
徳山村は、地図から突然消えたのではありません。
移転が進み、自治体がなくなり、水が谷を満たし、湖が新しい地図に描かれました。それでも、集落名、民具、写真、元住民のつながり、徳山会館の役割は残っています。
現在の徳山湖を見ることと、かつての村を知ること。その二つを切り離さないとき、失われた場所は「昔あった村」から、いまも地域の関係を問い続ける場所へ変わります。

