職人はなぜ瀬戸を離れたのか

瀬戸の時間を歩く 第3回。移動する職人を象徴する陶芸道具の包みと土の器。歴史場面を記録した写真ではありません。

瀬戸の時間を歩く|第3回
2029年、市制100周年へ

今回の時代:1500年代の後半〜1600年代の初め(戦国時代から江戸時代へ)

いつも仕事をしている町を離れ、別の土地で働き始める。今でも、引っ越しにはさまざまな理由があります。仕事が減ったからかもしれませんし、新しい仕事に挑戦するためかもしれません。

瀬戸のやきものを作る職人(しょくにん)たちにも、別の土地へ移った時代がありました。行き先は美濃(みの)。今の岐阜県南部を中心とする地域です。この動きは「瀬戸山離散(せとやまりさん)」と呼ばれています。

少し難しい名前ですが、まずは「瀬戸の職人が美濃へ移り、やきものを盛んに作る場所も変わった」と考えるとわかりやすくなります。では、職人たちはなぜ移ったのでしょうか。

目次

土の中に残った窯から、変化がわかる

やきものを焼く設備(せつび)を「窯(かま)」といいます。昔の窯があった場所には、壊れた器や焼くために使った道具が残ることがあります。こうした場所が「窯跡(かまあと)」です。

窯跡を調べると、どの時代に、どのような器を焼いていたのかが少しずつわかります。職人の日記が残っていなくても、土の中に仕事の手がかりがあるのです。

瀬戸の歴史を紹介するSetopediaによると、1500年代の終わり頃以降、今の瀬戸市内では「大窯(おおがま)」という種類の窯で生産した跡が、現段階では確認されていません。一方、美濃ではやきもの作りが盛んになりました。[1]

ここでわかるのは、生産の中心が移ったことです。ある日に瀬戸の人が全員いなくなった、という意味ではありません。「離散」という言葉だけから、町が一度に空になった場面を想像しないようにすると、出来事が見えやすくなります。

戦争から逃れるためだったのでしょうか

この頃は、各地で戦いが続く戦国時代でした。そのため、以前は「戦争の混乱を避けるため、職人たちが瀬戸を離れた」と説明されてきました。[1]

ただ、近年は別の見方もあります。織田信長(おだのぶなが)が美濃へ勢力を広げるのに合わせて、瀬戸の職人も活動する場所を広げたのではないか、という考え方です。[1]

手がかりになるのが、信長に関係する文書です。1563年と1574年の文書からは、瀬戸のやきものなどの売り買いを守り、新しい税をかけないようにしたことが読み取れます。また、ほかの場所で勝手に窯を作ることを禁じるなど、窯屋(かまや)を管理しようとする動きも見えます。[1]

仕事を守ることと、仕事の進め方を決めること。その両方に、土地を治める側が関わっていました。職人の移動(いどう)は、戦争の被害だけでなく、こうした政治の動きとも合わせて考える必要があるのです。

ただし、残された文書から、一人ひとりの気持ちまではわかりません。「全員が逃げた」「全員が新しい仕事を求めた」と一つに決めず、いくつかの理由が考えられることを覚えておきましょう。

移った先では、新しい器が生まれた

1500年代後半から1600年代初めにかけて、美濃では茶の湯(ちゃのゆ)で使う器などが盛んに作られました。黄瀬戸(きせと)、瀬戸黒(せとぐろ)、志野(しの)などの名前で知られるやきものです。[2]

名前を一度に覚える必要はありません。まずは、黄色みのある器、黒い器、白い器というように、色や表面の違いから見てみると親しみやすくなります。同じ土の器でも、焼き方や表面にかける材料(ざいりょう)によって、見え方が変わります。

やがて、斜面(しゃめん)に沿って部屋をつないだ「登窯(のぼりがま)」が使われ、織部(おりべ)と呼ばれるやきものも作られるようになりました。窯の形や焼く技術(ぎじゅつ)が変わることは、作れる器の変化にもつながっていました。[2]

展示で「瀬戸」という名前の器を見ても、その名前だけで今の瀬戸市で作られたと決めることはできません。黄瀬戸や瀬戸黒のように、美濃で作られた器にも瀬戸の名が入っています。作品の説明にある「どこで作られたか」も読んでみると、二つの土地のつながりが見えてきます。

職人が土地を移ると、道具だけでなく、土の扱い方や焼き方も移ります。人の移動は、技術が別の場所へ伝わる機会でもあったのです。

瀬戸へ戻った職人もいた

話は、美濃へ移って終わりではありません。1610年には、尾張藩(おわりはん)が美濃の職人を瀬戸へ呼び戻しています。藩とは、江戸時代に大名が治めた領地(りょうち)と、その政治の仕組みを指す言葉です。[2]

加藤利右衛門(かとうりえもん)らが赤津(あかづ)村や下品野(しもしなの)村へ戻り、瀬戸でのやきもの作りを立て直す動きにつながりました。窯の調査からも、この時期の生産を考える手がかりが得られています。[2][3]

瀬戸から美濃へ、そして美濃から瀬戸へ。こうして順番に見ると、二つの土地の歴史がつながっていることがわかります。ある町だけを見ていると「仕事が減った」と見える時代にも、隣の地域では新しい器が生まれていました。

瀬戸のやきものは、同じ場所で同じ作り方を守るだけで続いてきたわけではありません。人が動き、技術が伝わり、戻ってきた人がまた仕事を始める。その積み重ねも、長い歴史の一部です。

次回は、さらに時代を進めます。家の仕事を継げなかった次男が九州へ学びに行き、瀬戸のやきものを変えていく話です。

おさらいクイズ|一問一答

問題:瀬戸から移った職人たちが、やきものを盛んに作った地域はどこでしょう?

答えを見る

答え:美濃(みの)です。今の岐阜県南部を中心とする地域で、志野や織部などが作られました。人の移動とともに、やきものの技術も伝わっていきました。

出典・参考資料

  1. Setopedia「瀬戸山離散」
  2. 瀬戸市文化振興財団「瀬戸陶芸の多様化」
  3. 瀬戸市文化振興財団「穴田窯跡の発掘調査」

資料確認:2026年10月28日。掲載画像は連載用に制作した生成イメージに日本語を別途組版したものです。実在する歴史資料・建物・所蔵品の記録写真ではありません。

次回予告:家業を継げなかった次男が学んだこと。次回が公開されると、このページ下部にもリンクが表示されます。

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