#10 5,000人以上が暮らした島から、人が消えた日。軍艦島は廃墟になる前、ひとつの町だった

「地図から消えた日本」第10回・軍艦島。海上の炭鉱町を描いたコンセプトビジュアル
日本関係人口協会制作/AI生成によるイメージビジュアル。端島の実景・建物配置を正確に復元したものではありません。

建物は残った。

人だけが、いなくなった。

長崎港から南西へ海を進むと、護岸に囲まれた灰色の島が現れる。密集する鉄筋コンクリートの建物は遠くから一隻の軍艦のように見え、「軍艦島」の名で世界に知られている。

けれど、端島は最初から廃墟だったわけではない。

学校があった。病院があった。商店があり、映画を観る場所があり、屋上で遊ぶ子どもたちがいた。1959年の人口は5,259人。海に浮かぶ小さな島に、ひとつの町が詰め込まれていた。

1974年1月、炭鉱が閉山した。同年4月までに住民は島を離れ、町は無人になった。

わずか数か月で消えたのは建物ではない。そこを家と呼ぶ人々の日常だった。

目次

CHAPTER 01|海の岩礁が、高層都市になった

端島は、長崎半島の沖合にある小さな島だ。

その地下には海底炭田が広がっていた。石炭を掘るため、島の周囲は段階的に埋め立てられ、護岸で囲まれていった。

1890年、三菱社が端島炭坑を買収した。採炭設備が整えられ、出炭量が増えるにつれて働く人と家族も増えた。

土地は限られている。横へ広げるだけでは、住まいが足りない。

そこで建物は上へ伸びた。

1916年には、地下1階・地上7階の30号棟が建設された。国内初期の鉄筋コンクリート造高層集合住宅として知られる建物である。その後も集合住宅が密集して建てられ、島は生産施設と居住施設が重なる立体的な都市へ変わっていった。

島を囲む高い護岸と建物群の輪郭が軍艦のように見えたことから、「軍艦島」という呼び名が広がった。長崎市の資料では、戦艦「土佐」に似ていたことが呼称の由来として紹介されている。

ただし、軍艦島という名は見た目の比喩だ。

「軍艦島」という呼び名は外観に由来する。端島は海底炭の採掘拠点として、埋立てと建設を重ねながら形成された。

CHAPTER 02|5,259人の町に、生活のすべてがあった

1959年、端島の人口は5,259人に達した。

長崎市は、最盛期の人口を約5,300人、人口密度を当時の東京都区部の約9倍と紹介している。

数字だけでは、暮らしは見えない。

島には小中学校があり、病院があり、商店があり、理髪店や娯楽の場があった。炭鉱労働者だけでなく、その家族、教師、医療従事者、商店を営む人たちが暮らした。

建物同士は階段や渡り廊下でつながり、限られた地面の代わりに屋上が広場や遊び場として使われた。住戸の広さや設備は、建てられた年代、職種、役職などで同じではなかった。

水も食料も、島だけでは十分に得られない。

生活物資は船に頼り、荒天時には海が交通を遮った。水は長く限られた資源で、のちには海底送水管によって供給された。長崎市水道史には、閉山と無人化に伴い1974年4月に端島への水道が廃止されたことが記録されている。

一方、炭鉱の町は当時の先進的な家電や都市的な娯楽が早く入った場所としても語られる。

豊かさと不自由さは、同じ島の中に同居していた。

CHAPTER 03|地上の明かりは、地下の仕事で支えられた

端島の華やかな生活は、海底深くで石炭を掘る仕事の上に成り立っていた。

坑内は暗く、暑く、粉じんがあり、落盤、出水、ガス爆発などの危険があった。長崎市の取材記事で元住民の坂本道徳さんは、事故を知らせるサイレンが鳴ると、子どもたちが父親の勤務時間を確かめ合ったと証言している(長崎市「発見!長崎の歩き方」)。

炭鉱から上がった労働者は、作業着を着たまま最初の浴槽へ入り、炭で黒くなった衣服と体を洗った。島に残る鉱員風呂の跡は、建物の用途だけでなく、毎日の労働の重さを伝える。

軍艦島を「活気に満ちた夢の島」とだけ描けば、地下の危険は消えてしまう。

反対に「地獄の島」と一語で呼べば、家族の生活、学校、祭り、友人関係など、人々が築いた日常を消してしまう。

一つの場所に、誇りと恐怖、豊かさと格差、仕事と家族の時間が同時に存在していた。

CHAPTER 04|戦時労働を、観光の物語から外さない

端島の歴史には、戦時中の労働をめぐる重い問題がある。

日本人だけでなく、朝鮮半島出身者なども端島炭坑で働いた。戦時動員と徴用の制度、本人の意思、賃金や生活、労働環境、死傷者の記録をどう説明するかについて、日本政府、韓国政府、元労働者・元住民、研究者の間で見解や評価が一致しているわけではない。

2015年の世界遺産登録時、日本政府は、対象となる産業施設の一部で多数の朝鮮半島出身者等が本人の意思に反して連れて来られ、厳しい環境で働かされたことを理解できる措置や、犠牲者を記憶する措置を講じると表明した。この表明と、その後の展示の実施状況は世界遺産委員会で継続的に検討されている(登録時の決議 39 COM 8B.14)。

日本政府は、徴用政策を示す法令、賃金資料、事故・災害記録、元住民の証言などの調査・展示を進め、出身にかかわらず坑内労働が厳しかったことを説明している。

一方、2021年のユネスコ・イコモス調査と世界遺産委員会決議は、本人の意思に反して連れて来られ働かされた人々を理解し、犠牲者を記憶するための展示は当時なお不十分だとした。2023年の委員会決議は追加措置の実施を認める一方、関係国との対話、さらなる調査、資料収集と検証の継続を促している。

ここで重要なのは、異なる立場があることを理由に、この歴史を曖昧にしないことだ。

同時に、一つの証言だけですべてを代表させないことでもある。

本稿は、個々の労働者の経験を創作せず、政府資料、ユネスコの決議・調査報告、出典が確認できる証言を区別して扱う。

廃墟の美しさだけを見る視線は、そこで働いた人の姿を消してしまう。

CHAPTER 05|1974年1月、閉山が告げられた

戦後、日本のエネルギーの中心は石炭から石油へ移った。

採掘条件、コスト、事故、エネルギー政策の転換などが重なり、国内の炭鉱は次々に閉じていった。

端島炭坑は1974年1月に閉山した。

閉山は、単に職場が一つなくなることではなかった。島の住宅、学校、病院、商店、水道、交通は、炭鉱と住民が存在することを前提にしていた。

長崎市の公的計画には、端島炭坑の閉山で約580人の炭鉱従業員が整理解雇され、家族とともに新しい仕事を求めて他市町村へ転出したと記録されている。個々の家族の移転先や、その後の経歴が一様だったとまではいえない。

元住民の坂本道徳さんは、閉山決定後の約3か月、友人が毎日のように島を離れ、桟橋で別れを繰り返したと振り返っている(長崎市「発見!長崎の歩き方」)。

CHAPTER 06|同年4月、町の音が止まった

1974年4月、端島は無人になった。

5,000人以上が暮らした最盛期からは人口が減っていたとはいえ、閉山から無人化までの変化は急だった。

学校、集合住宅、病院、生産施設は島に残された。

窓から明かりが消える。

校舎から子どもの声が消える。

船が運んでいた食料も郵便も、住民のためには届かなくなる。

建物が残ったまま、都市の機能だけが止まった。

この急な断絶が、端島を特別な場所にした。通常の町では古い建物が順番に建て替えられ、道路や土地利用が更新される。端島では1974年の町の形が、風雨にさらされながらまとめて残った。

ただし、残ることは保存されることと同じではない。

無人化後、潮風、台風、雨水、鉄筋の腐食によって建物は崩れ続けた。

CHAPTER 07|廃墟から、文化財へ

端島は長く、許可なく上陸できない島だった。

2009年、長崎市が見学通路を整備し、一般向けの上陸観光が始まった。現在も上陸には運航事業者の船を利用し、市が定める安全基準を満たす必要がある。

見学できるのは島の一部だけだ。約250メートルの見学通路と3か所の見学広場が整備され、それ以外の多くは立入禁止区域である。波、風、視界などの条件によっては、船が出ても上陸できないことがある。

2014年、端島炭坑跡は高島炭鉱跡の一部として国史跡に指定された。

2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界文化遺産に登録された。

ここにも注意が必要だ。

世界遺産として登録されたのは、端島の建物すべてを「昭和の廃墟」として評価したものではない。資産全体の顕著な普遍的価値の中心期間は1850年代から1910年で、端島では採炭施設、埋立ての過程を示す護岸など、近代石炭産業の発展を示す要素が重要となる。

1916年以降の集合住宅や昭和期の生活史は、世界遺産の中心期間とは区別される。しかし、それらも端島の全歴史や国史跡、地域の記憶を理解する上で重要である。

CHAPTER 08|残すには、選ばなければならない

端島の建物は今も劣化している。

長崎市の2024年度概算では、2018年度から30年間の計画で、最優先で整備すべきものだけでも総額147.6億円が必要と見込まれている。市は護岸と石積擁壁、生産施設、居住施設などに優先度を設けて保存を進めている。

島全体を新築時の姿へ戻すことはできない。

どこまで補強するのか。崩壊の過程を記録するのか。観光客の安全をどう守るのか。世界遺産として重要な明治期の遺構と、元住民にとって大切な昭和の住宅や学校を、限られた費用の中でどう扱うのか。

保存とは、時間を止めることではない。

何を残し、何を記録し、何を語るかを選び続ける行為である。

その選択には、行政、専門家、元住民、観光事業者、寄附者、訪問者など、多くの人が関わる。

CHAPTER 09|故郷とは、建物なのか、人なのか

元住民の中には、無人化後の端島へ戻ることをためらった人がいた。公的な記録には、廃墟になった故郷を見たくないという声も残る。

一方で、島の歴史を伝え、写真や生活資料を集め、上陸ツアーで語る活動を続けた元住民もいる。

同じ故郷でも、関わり方は一つではない。

再び訪れる人。離れた場所から資料を寄せる人。友人関係を保つ人。子や孫へ島の話を伝える人。保存へ寄附する人。

そこには、住民票や現在の居住地だけでは測れない関係がある。

軍艦島を訪れる側にも責任がある。

建物の迫力だけを消費しない。無断で危険区域へ入らない。そこで暮らした人々を、廃墟の装飾にしない。炭鉱が生んだ豊かさと危険、戦時労働をめぐる歴史、閉山後の別れ、保存の費用を同時に知る。

端島は地図から消えていない。

消えたのは、島を町として動かしていた日常である。

故郷は建物だけではない。だが、建物が残ることで、そこにいた人々の関係を次の世代がたどることができる。

海に浮かぶ灰色の島は、過去を眺める場所ではない。

何を記憶し、誰の歴史を語り、どう未来へ渡すのかを、現在の私たちに問い続ける場所だ。

KEY NUMBERS|数字で見る端島

数字意味
5,259人1959年の端島人口。最盛期の約5,300人という説明の基礎
1890年三菱社が端島炭坑を買収
1916年鉄筋コンクリート造の30号棟が建設
1974年1月端島炭坑閉山
1974年4月端島が無人化、水道も廃止
2009年一般向け上陸観光開始
2014年国史跡指定
2015年世界文化遺産の構成資産として登録
147.6億円長崎市が2024年度概算で示した、最優先整備分を含む30年計画の総額

HISTORY|端島がたどった時間

年出来事
1890年三菱社が端島炭坑を買収
1897年出炭実績で高島炭坑を上回る
1916年30号棟建設。高層集合住宅の建設が進む
1959年人口5,259人を記録
1964年ガス爆発・坑内水没事故。操業規模縮小の契機の一つとなる(長崎市の解説)
1974年1月炭坑閉山
1974年4月無人島となる
2009年見学通路を使った一般上陸が始まる
2014年10月国史跡「高島炭鉱跡」の一部に指定
2015年7月世界文化遺産の構成資産として登録
2018年度以降長崎市が30年計画で保存整備を進める

MAP|島全体と、現在歩ける範囲

現在の端島の輪郭は、海底炭の採掘拠点を広げるため、岩礁の周囲を段階的に埋め立ててできた。島内には坑口や貯炭・選炭施設などの生産区域と、集合住宅、学校、病院などの生活区域が密集していた。現在の海岸線や残存遺構は、国土地理院「地理院地図」と長崎市「端島炭坑跡」で確認できる。

ただし、一般の見学者が歩けるのは約250メートルの見学通路と3か所の見学広場に限られる。通路から見える建物であっても、内部へ入れるわけではない。上陸条件と見学範囲は、出発前に長崎市公式観光サイトと運航事業者の案内を確認したい。

VISIT|現在の端島を訪ねる前に

  • 個人が自由に上陸することはできない。長崎市の基準に従う運航事業者のツアーを利用する。
  • 上陸できるのは見学通路・見学広場のみ。建物内部や立入禁止区域へ入らない。
  • 出航しても波・風・視界などにより上陸できない場合がある。
  • 世界遺産の価値は島のすべての建物を同じ理由で評価したものではない。

SOURCES|主な出典・参考資料

編集注:本記事は公開資料に基づいて作成したものです。元住民・元労働者への新規取材は行っていません。戦時労働については、日本政府資料、ユネスコの決議・調査報告、出典を確認できる証言を区別して記述しました。今後の研究や展示更新により説明が変わる可能性があります。

画像注:アイキャッチはAI生成によるイメージビジュアルであり、端島の建物配置、劣化状態、特定年代の景観を正確に復元した実景写真ではありません。

地図から消えた日本 — LOST JAPAN

前回 #09|最大約2万人が暮らした炭鉱の町は、なぜ湖底に沈んだのか。大夕張・鹿島地区

次回 #11|温泉街が高台へ移った。八ッ場ダムと川原湯温泉(制作予定)

「地図から消えた日本」シリーズ一覧

なくなったのは、場所だけだろうか。

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