#09 最大約2万人が暮らした炭鉱の町は、なぜ湖底に沈んだのか。大夕張・鹿島地区の記憶

「地図から消えた日本」第9回・鹿島地区。シューパロ湖と湖底の炭鉱町を描いたコンセプトビジュアル
日本関係人口協会制作/AI生成によるイメージビジュアル。旧鹿島地区の実景・復元図ではありません。

静かな湖の底に、一本の道路が残っている。

水位が大きく下がる年、その道路の一部や橋、建物の基礎が、水の中から姿を現すことがある。

北海道夕張市のシューパロ湖。現在は森と山に囲まれた巨大なダム湖だが、ここにはかつて鹿島地区という町があった。炭鉱の最盛期には最大約2万人が暮らし、学校があり、商店街があり、鉄道が走り、消防や警察の施設もあった。

町は一夜で消えたのではない。

1973年に炭鉱が閉じ、人口が減り、1998年に全戸が移転した。そして2015年、夕張シューパロダムの完成によって湖は大きく広がった。

湖に沈んだのは、空き地ではない。誰かが学校へ通い、買い物をし、帰る家を持っていた町だった。

目次

CHAPTER 01|水の下から、町が戻ってくる日

シューパロ湖の水位は、季節や降水量、ダムの運用によって変わる。

水位が低下すると、普段は湖面の下にある旧国道の跡、橋、住宅跡などが見えることがある。夕張市は、鹿島眺望公園からそれらの痕跡を望めると案内している。

過去には、管理者や主催者が安全を確認した限定区域を歩く「沈んだ街あるき」も開催された。2020年の市広報に残る案内には、栄町商店街、警察官派出所、消防出張所、大夕張会館、営林署など、かつての町を構成した施設の写真が並ぶ。

それは廃墟探検ではない。

かつて人が暮らしていた場所を、元住民や地域の関係者とともに記憶へつなぎ直す催しだった。

ただし、湖底や旧道が見えても、自由に立ち入ってよいわけではない。ダム管理区域には水位変動、ぬかるみ、崩落、流木などの危険があり、土地の管理やイベント実施条件も年度ごとに異なる。本記事は遺構への立ち入りを勧めるものではない。

安全な展望地点から見えるのは、町の断片だ。

けれど、その断片から逆に問いが生まれる。

なぜ、これほど山深い場所に2万人規模の町があったのか。

CHAPTER 02|石炭が、山の中に都市をつくった

夕張の発展は石炭と切り離せない。

夕張市の公式史によれば、1888年に志幌加別川上流で大きな石炭露頭が見つかり、1890年代から炭鉱開発が本格化した。鹿島地区を含む大夕張では、大夕張炭鉱会社を1912年に三菱鉱業が買収し、炭鉱とその周辺の町が拡大していった。

石炭を大量に掘るには、坑内で働く人だけでは足りない。

設備を保守する人、石炭を選別・輸送する人、電気や水を支える人、家族の暮らしを支える商店、学校、医療、行政の仕事が必要になる。炭鉱は一つの事業所であると同時に、町を生み出す産業だった。

1911年、清水沢と一部(のちの南大夕張)の間に専用鉄道が開通し、1929年に大夕張まで延伸した。のちの三菱大夕張鉄道は、石炭だけでなく住民の移動にも関わる生活の線となった。旧三菱大夕張鉄道や森林鉄道の橋梁群の一部は、水位条件によって姿を見せることがある(夕張市系「ゆうばり鉄道廃線跡マップ」、夕張市指定記念物の解説)。

夕張市は、鹿島地区の最盛期人口を「最大2万人」と紹介している。

ここで注意したいのは、この数字が水没直前の人口ではないことだ。炭鉱産業が活況だった時代の最大規模であり、1998年に移転した人数を示す数字ではない。

市の資料に残る施設名を並べるだけでも、暮らしの輪郭が見える。

栄町商店街。大夕張会館。警察官派出所。消防出張所。営林署。小学校、中学校、高校。住宅街。そして鉄道駅。

「炭鉱町」という一語の中には、坑内だけでなく、炭鉱で働く人を待つ家族、店を開ける人、子どもを教える人、町の安全を守る人の日常が含まれていた。

CHAPTER 03|閉山は、町の時間をゆっくり変えた

戦後の日本では、エネルギーの中心が石炭から石油へ移った。

輸入エネルギーとの競争、採掘条件、国の石炭政策の転換などが重なり、各地の炭鉱が縮小・閉山していく。夕張市全体では1960年に11万6,908人を数えた人口が、その後急減した。

三菱大夕張炭鉱は1973年に閉山した。

閉山した瞬間に町が水に沈んだわけではない。ここを混同すると、鹿島地区の歴史が見えなくなる。

炭鉱が閉じたあとも、そこには住民がいた。家があり、生活が続いていた。しかし、主要な雇用が失われ、人口は減り、店や学校、交通を維持する条件も変わっていった。

町が消える過程は、建物を壊す一日の出来事ではない。

同級生が転校する。店が閉まる。便数が減る。行事を支える人が少なくなる。以前は近所で済んだ用事のために、遠くへ行かなければならなくなる。

公的資料だけでは、それぞれの家族がどのような順番で町を離れ、どのような思いを抱いたかまでは分からない。本稿は元住民への直接取材を行っていないため、個人の言葉を創作して補うことはしない。

ただ、閉山から全戸移転まで25年あったという時間差が示すものは大きい。

鹿島は、閉山と同時に消えた町ではない。産業を失ったあとも、人々が暮らし続けた町だった。

CHAPTER 04|二つのダムを混同しない

現在のシューパロ湖を理解するには、二つのダムを分けて考える必要がある。

最初の大夕張ダムは1962年に完成し、主に農業用水と発電を担った。つまり、鹿島地区の近くには、夕張シューパロダム以前からダム湖が存在していた。

その下流155メートルに新たに建設されたのが、夕張シューパロダムである。

北海道開発局によれば、夕張シューパロダムは国土交通省、農林水産省、北海道企業局、石狩東部水道企業団による共同事業で、洪水調節、川の正常な機能の維持、農業用水、水道用水、発電を担う多目的ダムだ。農業用水は5市5町、約2万4,088ヘクタールの農地へ安定供給される計画である。

ダムは、遠く離れた町や農地の安全と暮らしを支える公共施設でもある。

一方、その貯水池を拡大するには、土地を水の下へ移す必要があった。

公共事業の利益と、移転を受け入れる地域の損失は、単純にどちらか一方だけで語れない。水を得る地域と、故郷を離れる地域が同じとは限らないからだ。

CHAPTER 05|1998年、最後の家が町を離れた

夕張市の観光資料は、1998年にダム建設に伴って鹿島地区の全戸が移転したと記録している。

これはダム完成の17年前である。

全戸移転と2015年のダム完成は同時ではない。住民が移転したあと、長い工事期間を経て、湖の範囲が広がった。

公的なウェブ資料からは、すべての世帯の移転先を一つの地域として確認できない。市内に移った人も、市外へ生活の場を移した人もいた可能性があるが、本稿では個別の移転記録を確認できていないため断定しない。

重要なのは、移転によって地域との関係まで切れたわけではないことだ。

鹿島眺望公園には、旧夕張東高等学校や旧鹿島小中学校の閉校記念碑などが移設されている。石碑は建物の代わりにはならない。だが、学校名や地域名を現在の地上に残すことで、「ここに町があった」という記憶の置き場所になる。

現在も公園には元住民や関係者、炭鉱・鉄道をたどる人々が集まると夕張市は記している。

現在は住む人がいない場所にも、帰ってくる人がいる。

CHAPTER 06|2015年、湖は大きくなった

夕張シューパロダムは2015年に完成した。

湛水面積15.0平方キロメートル、総貯水容量4億2,700万立方メートル。北海道開発局は、ダム湖として湛水面積が国内2位、総貯水容量が国内4位と説明している。

新しいダムによって、それまでの大夕張ダム湖は大きく拡大し、旧鹿島地区の広い範囲が水面下へ入った。

湖面から立ち枯れた木が見え、条件によっては旧道路や橋が現れる。景観だけを見れば、静かで美しい湖である。

しかし、その美しさを「誰もいなかった自然が戻った」と表現することはできない。

湖底には、人がつくった道の線がある。子どもが通った学校の場所がある。商店の並びがあり、家々の区画があった。

現在の風景と過去の暮らしは、どちらか一方を消して理解するものではない。

CHAPTER 07|記憶を歩くことの意味

「沈んだ街あるき」は、湖底の珍しい遺構を見るだけの催しではなかった。

かつての町を知る人と、町を知らない世代が同じ場所に立つ。地図や写真を手がかりに、何もないように見える地面へ、商店や学校や家の位置を重ねていく。

そうした体験は、場所の記憶を個人の胸の中だけに閉じ込めないための方法になりうる。

一方で、イベントはダムの水位と安全条件に左右される。2025年度は熊の出没により中止され、2026年度は9月12日の開催として案内された。毎年必ず同じ条件で開催されるとは限らないため、訪問時は当該年度の夕張市・主催者の公式発表を確認する必要がある。

訪問者ができることは、遺構へ勝手に入ることではない。

鹿島眺望公園から湖を見て、移設された碑を読み、夕張市石炭博物館や鉄道保存車両など、地域が守ってきた資料へ足を運ぶ。地域の記録を読み、活動を支える。安全と土地の管理を尊重した関わり方そのものが、記憶を未来へ渡す条件になる。

CHAPTER 08|故郷は、水の下にあっても続く

鹿島地区には、現在の常住人口がいない。

だからといって、地域が完全に消えたとは言い切れない。

元住民が集う。学校の碑が残る。町の写真が保存される。水位が下がったとき、道路の形からかつての生活を読み直す催しが行われる。市外の人が炭鉱や鉄道の歴史を知り、再び訪れる。

そこには、住所や居住人口とは別の形で続く地域との関係がある。

関係人口という言葉は、将来の地域づくりを語るときによく使われる。だが鹿島地区が示すのは、失われた場所にも関係が続きうるということだ。

住めない。戻れない。建物も残っていない。

それでも、その場所を故郷と呼ぶ人がいる。歴史を伝える人がいる。初めて知り、忘れないように記録する人がいる。

住む人がいなくなっても、町と人との関係まで消えるとは限らない。

湖の下に残された道路は、そのことを静かに伝えている。

KEY NUMBERS|数字で見る鹿島地区とシューパロ湖

数字意味
最大約2万人炭鉱産業最盛期に夕張市が紹介する鹿島地区の人口規模。水没直前の移転人数ではない
1973年三菱大夕張炭鉱の閉山
1998年ダム建設に伴う鹿島地区の全戸移転
2015年夕張シューパロダム完成
15.0km²ダム湖の湛水面積
4億2,700万m³総貯水容量

HISTORY|鹿島地区がたどった時間

年出来事
1911年清水沢―一部(のちの南大夕張)間の専用鉄道が開通
1912年三菱鉱業が大夕張炭鉱会社を買収
1929年南大夕張―大夕張間が延伸開通
1962年大夕張ダム完成。農業用水・発電を担う
1973年三菱大夕張炭鉱閉山
1987年三菱大夕張鉄道線廃止
1998年鹿島地区の全戸が移転
2015年夕張シューパロダム完成、湖が拡大
2020年市広報で「沈んだ街あるき」の開催案内を確認
現在鹿島眺望公園、記念碑、炭鉱・鉄道遺産を通じて記憶を継承

MAP|現在の湖から、かつての町を読む

現在のシューパロ湖は、1962年に完成した大夕張ダムの湖面を、2015年完成の夕張シューパロダムによって大きく広げたものだ。国道452号沿いの鹿島眺望公園から湖を望むと、現在の湖岸線と、条件によって現れる旧道や橋梁を通して、旧鹿島地区があった範囲をたどることができる。

ただし、湖面は水位によって変わり、旧版地形図にも作成年や縮尺の違いがある。学校、商店街、個々の住宅を現在の座標へ一点で断定せず、「旧鹿島地区のおおよその範囲」として読む必要がある。現在地の確認には国土地理院「地理院地図」と、夕張市が案内するシューパロ湖、鹿島眺望公園の情報を併用したい。

VISIT|現在の鹿島地区を訪ねる前に

  • 鹿島眺望公園は国道452号沿いの展望地点。現地の案内と交通規制に従う。
  • 湖底・旧道・橋梁・管理区域へ無断で入らない。
  • 「沈んだ街あるき」は常設見学ではない。開催年度の公式案内、申込条件、装備、安全上の指示を確認する。
  • 水位低下時でも、遺構が必ず見えるとは限らない。

SOURCES|主な出典・参考資料

編集注:本記事は公開資料に基づいて作成したものです。元住民への直接取材、現地取材は行っていません。個々の世帯の移転先や記憶は、今後の取材で補う必要があります。イベント、水位、立入可能範囲は変わるため、訪問前に最新の公式情報を確認してください。

画像注:アイキャッチはAI生成によるイメージビジュアルであり、実在した鹿島地区の街並み、建物配置、湖底の状態を復元したものではありません。

地図から消えた日本 — LOST JAPAN

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なくなったのは、場所だけだろうか。

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