「日比谷神社」は、なぜ日比谷にないのか――400年の移転史を地図で追う

地図から消えた日本 #03 日比谷神社 日比谷から新橋。古地図と公園と移転の軌跡

地図から消えた日本 #03

「日比谷神社」は、なぜ日比谷にないのか――400年の移転史を地図で追う

1記事=1か所。今回は、日比谷神社だけを歩く。

秋葉原では、神社は地名を残して消えた。
御茶ノ水では、社殿が移ったあとに、一本の木が残った。
日比谷では、町名が先に消えた。

古地図の江戸城と、日比谷公園から新橋の鉄道へ向かうイメージ。地図から消えた日本 #03 日比谷神社
「地図から消えた日本」#03 日比谷神社。キービジュアルは編集合成であり、実在の古地図や現地写真そのものではありません。

日比谷公園を歩く。噴水があり、イチョウがあり、野面積みの石垣がある。東京都の公園公式は、その石垣を日比谷見附の遺構と書く。社殿はない。鳥居もない。なのに、港区東新橋にある神社は、いまも日比谷を名乗る。

名前と場所がずれるのは、消滅の印ではない。この連載は心霊を追わない。神社公式のご由緒と、東京都神社庁の要約と、国土地理院の地図をつき合わせ、社号だけが旧地を指さし続けた過程を歩く。

CHAPTER 01現在、この場所には何があるのか

日比谷は、いま公園と駅の名前である。東京都の公園公式「日比谷公園」は、所在を千代田区日比谷公園、開園を明治36年(1903年)6月1日とする。幕末までは大名屋敷があり、明治になって陸軍練兵場になった土地を、本多静六が西洋風の公園として設計した、と記す。日本初の「西洋風」公園、という位置づけである。

同じページの見どころに、日比谷見附跡がある。江戸時代、この一帯は大名の屋敷地であり、江戸城へ登城するには日比谷御門の見附を通った。石垣は野面積みで、初期の築造だと公園公式は書く。濠の一部は、開園時に心字池として残された。

つまり、いま公園で確認できる石は、神社の石ではない。城門の石である。神社庁は旧鎮座地を「いまの日比谷公園の大塚山」と記すが、公園公式の見どころ一覧に大塚山の項はない。本記事は、大塚山の緯度経度を地図のピンで特定しない。

現在の社は、ここにはない。東京都神社庁は、所在を東京都港区東新橋2-1-1とする。最寄りはJR「新橋駅」徒歩5分、ゆりかもめ・都営大江戸線「汐留駅」徒歩3分。JR東日本が公表する2024年度の駅別乗車人員では、新橋は1日平均23万1,628人、同社管内で第8位である。降車は含まない。ビジネス街の人流が、旧地の公園と現社地のあいだを毎日横切る。

国土地理院の標準地図。日比谷公園と日比谷駅付近
現在の日比谷公園(旧鎮座地の一帯)。出典:地理院タイル(標準地図)/国土地理院。大塚山の座標は特定しない。日比谷見附は城門遺構であり、社地の痕跡ではない。

CHAPTER 02古地図を開いてみる

日比谷側を、明治の測量原図で見ることができる。参謀本部陸軍部測量局が明治16年(1883)に測量した『五千分一東京図測量原図』のうち、『東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍』である。国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースは、内容年代を明治16年、大きさ29×36cmと記す。図の範囲は、皇城と永田町の近傍であり、のちに日比谷公園になる一帯を含む。

芝口・新橋側は、翌明治17年(1884)の『東京府武蔵国芝区芝濱崎町近傍』が近い。神社は慶長11年にはすでに芝口へ移っている。明治の五千分一図が描く日比谷は、社地ではなく、屋敷と練兵場のあとの市街である。本記事は、原図の高精細画像そのものは埋め込まない。閲覧は地理院と日文研の公開条件に従う。

原図から半世紀以上あとの空中写真を開く。国土地理院が公開する1945〜1950年の写真では、濠と緑地の骨格がすでに公園として読める。社殿をこの写真から特定してはいけない。写っているのは、遷座のあとに残った城下の空地が公園になった姿である。1961〜1969年の写真では、噴水と園路がさらに明瞭になる。現在の標準地図では、その緑の上に日比谷公園の文字が重なる。

国土地理院の空中写真。1945年から1950年の日比谷公園と濠
日比谷公園と濠。空中写真(1945〜1950年)。出典:国土地理院。社殿の位置をこの写真から特定しない。
国土地理院の空中写真。1961年から1969年の日比谷公園
日比谷公園。空中写真(1961〜1969年)。出典:国土地理院。公園開園は明治36年。

THEN

空中写真 1961〜1969

1960年代の日比谷公園の空中写真

NOW

地理院地図(現在)

現在の日比谷公園の地理院地図
THEN / NOW。1960年代の空中写真と、現在の地理院地図。出典:国土地理院。旧社殿の位置をこの対比図で断定しない。

CHAPTER 03神社はいつ、なぜ造られたのか

公式サイト「ご由緒」は、こう書き出す。鎮座400年あまり前に創建された当社は、平成21年に当地へと遷座された、と。創建の正確な年は、公式も神社庁も「不詳」に近い書き方を残す。神社庁は「創建は不詳です」と一文で切る。

旧地の名は、公式が具体的である。古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神・旅泊稲荷明神と称していた。旅泊は「さば」と振りが振られる。のちに魚の鯖へ転じ、鯖稲荷と呼ばれるようになった、と公式は続ける。神社庁も別名を鯖稲荷とする。

祭神は、公式「ご祭神」と神社庁で一致する。豊受大神と、祓戸四柱大神(瀬織津比賣・速開都比賣・気吹戸主・速佐須良比賣)である。公式は、豊受大神を伊勢の神宮外宮の神、祓戸四柱を穢れを祓う神と説明する。

江戸城の外縁にある鎮守が、なぜ「日比谷」を名乗り続けたのか。公式が記す次の一文が、この記事の核になる。慶長11年(1606)、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子とともに芝口へ移動した。だが、町名は従来のまま、日比谷となっていた、と。

神社庁の要約は、年を慶長年間とし、行き先を芝口(いまの東新橋辺)とする。公式は1606年と書く。本記事は、公式の年次を掲げ、神社庁の「慶長年間」も捨てない。二つは矛盾というより、粒度の差である。

公式は、寛永7年(1630)に新橋へ芝口御門が造営され、町名が日比谷町から芝口町へ改称された、と続ける。社号は変えず、現在に至る。町の名は城門に合わせて変わった。神社の名は、旧地を捨てなかった。日比谷神社が日比谷にない理由は、まずここに書かれている。

公式は、芝口の地に鎮座して四百有余年となる古社だ、とも書く。幕府の時代、毎年1月6日に神札を捧持して登城する慣例があったといわれ、伊達・脇坂・中川・肥後・本堂・毛利・井上・片岡の諸公から篤い崇敬を集めていたといわれる、という書き方である。伝承は伝承として置く。明治5年(1872)に村社に列せられた、と公式は年次を添える。

CHAPTER 04なぜ、この場所から消えたのか

消えた、で終わらせてはいけない。日比谷から芝口へ動いた理由は、公式が城門の造営だと書く。氏子もともに移った。神社だけが抜かれたのではない。町そのものが、門の外側へ押し出された。

二度目以降の移動は、公式と神社庁と地元紙で、層がずれる。公式ご由緒は、関東大震災(大正12年)の影響で昭和3年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地され、現在の新橋四丁目に御社殿が造営された、と一連で記す。平成21年、都市道路計画(環状2号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造した、と。

東京都神社庁は、慶長年間の芝口移転のあと、「JR線建設の為、再び移動し現在の所に御鎮座しました」と要約する。JRと環状2号を、一つの文に畳んでいる。

2009年8月3日の『新橋経済新聞』は、7月31日の遷座祭を現場から報じた。当時の社は港区新橋4。環状2号建設工事に伴い、御神霊が約200メートル先の新社殿へ移った。紙面は、移転を江戸時代から通算3度目とし、1923年の震災、1928年の区画整理、1957年のJR敷設による新橋4丁目の社殿、という年次を背景に置く。新社殿の所在は「東新橋1丁目」「汐留シオサイト内」と書いた。

公式は東新橋二丁目、神社庁は東新橋2-1-1、2009年の紙面は東新橋1丁目。丁目の数字は一致しない。本記事は、現在地を公式と神社庁の東新橋2-1-1とし、紙面の1丁目は当時の報道表記として残す。1957年のJR敷設も、公式ご由緒は独立した遷座年としては挙げない。神社庁の「JR線建設」と、公式の「環状2号線」と、地元紙の1957年を、一つの年に畳まない。

なぜ環状2号なのか。新橋と汐留のあいだに、都心と臨海を結ぶ道路が必要になった。社地は、その線形の内側に入った。廃絶ではない。氏子の町会は、公式が列挙する通り、新橋と汐留の側に残った。社は、氏子の近くへ、もう一度だけ寄った。

  1. 日比谷御門造営で芝口へ 公式ご由緒。氏子とともに移動
  2. 町名は芝口、社号は日比谷 芝口御門造営に伴う町名改称
  3. 区画整理で愛宕下町へ換地 震災後。のち新橋四丁目に社殿
  4. 環状2号線で東新橋二丁目へ 公式ご由緒。遷座祭は7月31日
  5. 港区東新橋2-1-1 社号は日比谷のまま。公園に社殿はない

神社庁はJR線建設と要約する。2009年の地元紙は1957年のJR敷設を記す。公式ご由緒は1957年を独立した遷座年としては挙げない。本文で区別する。

日比谷神社の移転を慶長11年から現在まで並べた時系列図
日比谷神社 移転の時系列。編集図。西暦と出来事は本文の史料に対応する。

CHAPTER 05その後、神社はどこへ行ったのか

現在地は、神社公式と東京都神社庁によれば東京都港区東新橋2-1-1である。公式は、新橋四丁目町会・新橋五丁目町会・汐留町会・新橋二丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋一丁目町会および汐留シオサイト地区の氏神だ、と書く。社は、日比谷の名を掲げたまま、新橋と汐留の鎮守になった。

アクセスは、神社庁によればJR山手線・東海道線・京浜東北線、東京メトロ銀座線、都営浅草線の「新橋駅」から徒歩5分。ゆりかもめ線・都営大江戸線「汐留駅」から徒歩3分。社務所の受付は公式が10:00〜17:00、休務日は毎週水曜日と記す。

例祭は、神社庁によれば5月第2週の金・土・日。消滅ではない。合祀でもない。遷座である。地図の記号は日比谷公園から消えたが、社は豊受大神と祓戸四柱を祀り続けている。

国土地理院の標準地図。港区東新橋の日比谷神社現社地
現在の日比谷神社(港区東新橋2-1-1)。出典:地理院タイル(標準地図)/国土地理院。所在は神社公式と東京都神社庁に基づく。新橋四丁目のピンは平成21年遷座前の町丁であり、旧社殿の建物位置を断定しない。

CHAPTER 06旧社地に痕跡は残っているか

秋葉原では、目に見える社地の痕跡は確認できなかった。御茶ノ水では、区が椋の木と「元宮」を文章に残していた。日比谷では、公園公式が保証している石は、神社のものではない。

日比谷見附の石垣は、江戸城の門の遺構である。心字池は、濠の名残である。首賭けイチョウは、道路拡張で伐採されかけた木を本多静六が移植した話として公園公式が書く。いずれも、社地の代替物ではない。本記事は、これらを旧社殿の痕跡とは書かない。

残っているのは、名である。公園の名、駅の名、そして東新橋の社号。公式が強調するのは、町名が芝口へ変わっても社号は日比谷のままだった、という一点である。石がなくても、四百年のあいだ社号が旧地を指さし続けた。

大塚山という丘の名は、神社庁と公式ご由緒に残る。公園の案内板でその位置をこの調査が特定できたわけではない。確認できないことを、発見にしない。

CHAPTER 07現在地を歩いてみる

アクセス

旧社地の一帯:日比谷公園。公共の園路を歩く。日比谷見附跡は城門の石垣として見る。植え込みや工事柵の内側、私有地には入らない。社殿を探して地面を掘らない。

現社地:港区東新橋2-1-1。JR新橋駅から徒歩約5分、汐留駅から徒歩約3分(東京都神社庁)。社務所は10:00〜17:00、水曜休(神社公式)。境内は公開の参拝空間として歩く。

公園で濠と石垣を確認したら、南へ、新橋へ歩ける。距離は1キロに満たない。空気は、官庁街の緑から、高架とメディアのビルへ変わる。公式が書く環状2号線は、そのあいだを貫く道路である。

現社地側で必要な観察は、社号と、線路と、第一京浜の位置で足りる。閉店した店の隙間や、工事中の敷地を探さない。

CHAPTER 08地図から消えても残ったもの

社殿は、日比谷を出た。町名も、寛永の門とともに芝口へ変わった。残ったのは、社号の四文字である。

秋葉原では、土地の呼び名が駅になった。御茶ノ水では、土地の祈りが木になった。日比谷では、土地の呼び名が社号になった。公園は日比谷を名乗り、神社も日比谷を名乗る。同じ語が、旧地と現社地を同時に指す。

地図から消えた日本は、空白の物語ではないことが多い。城門が公園になっても、道路が汐留を貫いても、社は氏子の町で続いている。日比谷神社は、その典型である。

次回は、調布である。小学校裏の住宅地が、かつての境内だと自ら書く神社を歩く。

出典

キービジュアルおよび時系列図は編集図であり、実在の古地図・現地写真の代替ではありません。明治の測量原図は地理院・日文研の公開ページで閲覧してください。空中写真と現在地図は国土地理院の地理院タイルを加工して作成しています。

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